回り道をしよう

こだわる、というこだわりが、ない、というこだわり。そういうことが一切問題にならない状態を続けるというこだわり。良くわからなくなっている自分(w。

今日はジン・ラミーの100点勝負を3回やろう、と娘と昨日約束した。結果的には寝る時間になってしまったので1回しかできなかったが、今日はおとうさんが最後にジンで逆転し勝った。娘は悔しいうなり声を発するので、クーリングゲームとして、ドーナッツを半分のカードで遊んだ(これが大事かと)。しかし最後の勝負もおとうさんが勝ってしまった。「明日はおそらく勝てるよ」。ちょっと前まで、負けるとどうしようもなく泣き出してぐずっていたのに、最近はそうではなくなった気がする。大人と対等の勝負をしている実感があるのかな、もしかして。

おとうさんが、ちょっと仕事で忙しかったりすると、2、3日なんてあっという間に過ぎてしまう。その間、トランプもしなかったり、ゲームもしないなんてことは、ありうる話だ。最近はそういう状態が起こることはほとんど無かったけれど、だからといって全方位的におとうさんがトランプとか計算とかゲームとか、そういうことに手を施せていたかというと、たぶんそうではないのだろう。

計算の方法におとうさんが目覚めたつい最近に、その瞬間、しなくなっていたゲームは、将棋、オセロ、ダイヤモンドゲーム、コピット、ホイスト、囲碁、そしてセット。セットをしなくなっている、いいのか、それで?

計算が大切なんだろうと思った。そしておとうさんはインターネット(だけ)で調べて、なんとかなりそうだと思った。でも、、、本当にその方法を続けられるのか?続けられなかったときに、どうなるのか?ということを考えているのか?

なぜ今ジン・ラミーなのか。それは、娘自身の点数計算のできふできが、ゲームの勝敗に関わっていることが明らかだから(と思っているおとうさん)。

なぜ、今、計算なのか。なぜ、今、箸の持ち方ではないのか。

………………

私が思うに、私自身は、何かに強くこだわってしまうと、その分視野を狭くしてしまって、失うものの方が多いような気がする。

その反対の世界を見る余裕があったとしたら、そのときは娘の方が、世界が広いような気がしてくる。それは、こだわりがなくて、いろんなものを、自分なりに吸収しているからだ。ああ、すごいなぁと思う。

いろんな回り道をしよう。今も。これからも。

おそらく、娘はおとうさんの考えや行動に関わり無く、自分は自分でいろんなことを吸収して自分の世界を切り開いて行くのだ。ほっといても、育つのだろう。娘におとうさんの成長を見られているような気分だ。

自分は世界の100億分の1くらいだろう。しかしそういう混沌の生活の中でも、着実に大人より1000倍も速い時間を生き過ぎて行っている娘が目の前にいることを、私が今を生きていることよりもさらに痛切に感じることがある。

明日はどう遊ぼうか生きようか。