回想 Mr. Takagi

ベタなタイトルになってしまったが、いわゆるそういうことなのです。仙台ブリッジクラブの名誉会長である高木さんが10/4にご逝去されたと聞き、最近はあまり会っていなかったなぁ、とか、お年だったしなぁ、とか考えはした。が、通夜や葬儀に出るべきかどうかは私自身よくわからなくて、結局何も動くこと無くこの時期を過ごした。

まあ、世の中、そういうことはままあるだろう、と考えたが、家庭の経験というか、おそらく私の家の中のことで、なかなか人の口に上ることもないだろうことを、私自身、というか私の家族も含めて経験をしていたので、なんか切ないな、という気持ちを持ちつつ、10/8の体育の日にはドライブ中に奥さんと高木さんのことを偲んだ。

今の世の中は、ブログという表現方法もあり、こういう形での表現も可能だから、以下のいくつかの話はブログに書くことで自分を落ち着かせることにした。それもありなんだよね、と自分で自分を納得させる。

ブリッジ講習

これから書くことは、私の独断と偏見が多分に介入していると思うので、もしかすると正しくない誤解が混ざっているかもしれない。まあ、それでもさほど人に迷惑をかけるほどのことがらではないので、先に言ったもん勝ちみたいなノリで行こうと思う。

娘が生まれたのが、このブログのプロフィールに書いてあったが、2003年の8月。私自身は、その1年前に奥さんに引っ張られて地元の盛岡のブリッジクラブに顔を出していた。一度顔を出した後は、ブリッジ熱に火が付いてしまい、奥さんと一緒にブリッジを勉強したりもした。今でこそ、奥さんはブリッジの熱が覚めてしまったようだが、娘がブリッジをするようになる前は、奥さんと私がよくペアを組んでいたのだった。

仙台が実家である私の奥さんは、出産が近くなったので実家に帰ることにした。実家で暇を持て余した奥さんは、私が促したわけではなかったが、仙台ブリッジクラブに一人で顔を出すようになった。私自身は2003年の5月に恒例の青葉リジョナルに上級者と組んで出場していたし、その後の6月には奥さんが仙台に里帰りした記念に(というか私がブリッジをしたいがためにw)、奥さんとペアを組んで仙台ブリッジクラブのウィークリーに参加をし、入賞してマスターポイントをもらっていた。

その時に、近々、仙台ブリッジクラブでは、ブリッジ講習会を平日昼に開くという情報を得ていたので、昼間に暇な奥さんが、この講習会に自主的に参加したということらしい。

この時の講習会は10回以上の連続の会だったようだが、奥さんはそのうちの3回、それも飛び飛びで参加したようだ。その時の先生が高木さんだった。生徒は奥さん含めて3名。高木さんは、言うことはかくしゃくとして教習として素晴らしい指導を行うが、なにせまっすぐな方だからユーモアには縁遠く、3名の参加者の中でユーモア抜群の方がいて、その方が間の隙間を一生懸命笑いで埋めていたとのこと。

奥さんは、ディフェンスのパンピングの講習の時にディクレアラになって、強制的にラフさせられてとっても悲しい思いをした、と教えてくれた。「とっても大変だってことを身にしみて感じた」とのこと。

10数回ある講習のうち、3回しか出なかった奥さん。それでも臨月の直前に自主的に3回も、良く出席したなと感心していたのだった。参加者も、仙台ブリッジクラブの皆さんも、奥さんがもうすぐ出産だということは、見ればわかる。

この時の仙台ブリッジクラブの会場は今のビルになる前の、洋服屋さんの2F、細い階段を2Fまで上がっていく会場だった。その階段を恐る恐る降りて帰る奥さんの姿が目に浮かぶ。階段を降りて、サッシのドアを開けて外の通路に出る。

すると2Fの窓がガラっと開いて、2階から頭を出して高木先生が通路を歩く奥さんに向かってこう言ったとのこと。「また、いらっしゃい」。「あっ、はいっ!」

ああ、そうか。ぼくとつな高木さんに、そういう形で声を掛けられたか、我が奥さん。良かったなそれは、本当に。

さらに、講習の後日には、練習競技会のような形でトーナメントに出られるそうなのだが、3名の中で事前にブリッジを知っていたのは奥さんだけだったらしく、奥さんが勧めに応じて競技会にいそいそ出かけてみると、パートナーは誰もいない。そのため、高木先生が自らパートナーを買って出て、うちの奥さんは、何の苦労もなく競技会を幸せに過ごしたとのこと。その競技会には3回ほど参加したらしい。

競技会の中での話。高木先生は、奥さんのどんな下手なビッドにも、プレイにもディフェンスにも、何一つ文句を言わなかったそうだ。しかし、後ろのテーブルの人に「そこは、そうじゃないでしょう」と怒鳴りつけていたらしい。まるで後ろに目が付いているんじゃないかと、みんなで怖がっていたってw。

なんだかんだいううちに、娘が生まれて、奥さんは娘が大きくなるまではブリッジから離れることになって、奥さんが仙台BCに顔を出すようになったのは、娘が3才になってからのことだった。その後はおかあさんも何度か顔を出してはいたが、娘が7才で盛岡のクラブでトーナメントデビュー、8才で仙台ブリッジクラブにおとうさんと一緒にデビュー。最近ではおかあさんすっかり出る幕無し。

高木先生のブリッジ講習が娘の胎児教育になったのは事実だ。また、結果的に盛岡から定期的に仙台のブリッジクラブの日常会場に顔を出しているのは、おそらく私達夫婦&父娘以外はほとんどいないのだと思う。多くの盛岡の人達は春と秋の大きな大会だけの参加だ。そういうことがいろいろとあって、私達が仙台に遊びに行くと、まっさきに挨拶しに行くのは高木さんだった。なにしろ、奥さんの先生だし。

そういう、感じを、私も、奥さんも、持っていた。

だから、今年の7月、仙台に娘と参加してペア戦4位になった時、高木さんは参加していなかったのだが、この成績表を見て驚いたり喜んだりしてくれたかな?とか、8月末に娘と懸賞に当たって福岡に招待されてビギナーズ杯に出場することになったことを、喜んでくれていたかな、とか、その時のペア戦で7位入賞したことに驚いて喜んでくれたかな?とか、今はいろんなことが頭をめぐるけれど、おそらく、すべて、驚いて喜んでいてくれたと確信している。もう聞けないんだけどね。

本当にプライペートで人に言う必要もない小さなことのなので恐縮なのだが、我が家庭に(特に奥さんに)、ブリッジを通して忘れられない暖かい風を通してくれた方が、あのぼくとつとした高木さんだ。高木さんの講習は、今、家族の記憶として定着し、さらには娘の記憶として生き続けているんだと確信している。

合掌。