泣く娘

近頃、というのはいつ頃かというと、先月のトランプ教室の頃からか、おとうさんにトランプで勝てないと、おもいっきり泣くようになってきた。まあ、おもいっきりと言っても、涙は出るが泣き止むのも早い。

おかあさんは勝負に厳しいので(w、娘と遊んで娘が負けると、以前から泣きべそをかいていた。おとうさんは、なんとか場を盛り上げようと、いろいろと褒めたりすかしたりするので、そのへんの社会性を感じてか、今までは、おとうさんと遊んだ時にはあまり泣いたりすることが無かった。それもどうかな、と思っていたのだが、おとうさんとしては勝ち負けよりもまず、みんなで遊べることが大切、と思っていた所もある。

先月のトランプ教室で、大きな子たちの中に入れてもらって、大騒ぎをせずに落ち着いてトランプができたことが、脳みそにひびが入ったのではないかと思う。そういう時期が来た、ということなのかもしれない。そこからは家で遊んでも、娘は勝ちにこだわるようになってきた。おとうさんとの簡単な遊びでも、負けると泣くようになってきた。その結果、今月のトランプ教室で全体で1位を取ったのだから、その「まけんき」は評価に値するのだろう。

おとうさんは、まけんき、を助長しない。おかあさんは、まけんき、に油を注ぐ(w。こんな関係なので、娘はどちらの顔も見てきていたと思う。そして、ちょうど良い所で、自分で気がついて、自分の、まけんき、を表現することにした/そういう時期が来た のだと思う。

今までは、適当に遊んでいたが、このまけんきが出て来たところからは、相手をするのに注意が必要と思った。まけんきがあるのは良いが、良い方向へ導いてあげないといけない。Grit、くやしくてハギシリすることから、練習をハギシリしてがんばる方向へ向けてあげると、運ゲーム以外のトランプゲームも、じっくりとその味を楽しむことができるようになるだろう。

ひらがなのドリルも、おとうさんが工夫して作ってあげることにした。来年1年生ということでベネッセとかからしきりに評価版が送られてきて、とても良い感じのドリルで娘も楽しんでやっている。一見良さそうに見えるが、実は落とし穴があると思う。

うちでは、初夏に引っ越した後から、テレビ生活を脱却し、つけるのはもっぱらラジオか音楽だけ、という生活に慣れてきている。ただ、夕方に、おとうさんもおかあさんも忙しい時に、DVDやビデオを30分だけ見て良い、ということが標準化してきた。その時間を利用して、ドリルとかをさせるのは良さそうに思ったのだが、実は、おとうさんもおかあさんも見ていない状態で、いくらドリルを進めたとしても、やっぱり意味が無い、と感じた。テストに丸付けだけをするだけの関係だと、何か書き順などを修正してあげようとしても、聞く耳を持たない。

自我が出てきて、じょっぱり、になってきても、大切な話はきちんと聞いてくれるようになるためには、やはり過程にきちんと一緒に入っていることが大切と思う。以前、自転車の補助輪を取り外そうと思った時に、補助輪なしの自転車はおとうさんがいつも押さえて、乗れるようにしてあげよう、と思ったことがあった。結局補助輪をもう一度付けることにはなったのだが、そういう、途中の過程にきちんと付き合うこと、が今の時期は本当に大切なんだなぁと感じた。

ひらがなの書き方練習は、いくら忙しくてもおとうさんがドリルを作り、面倒を見ることに決めた。そのようなことが時間的にできないおとうさんだって多いわけだから、自分が少しでもできる状況にあるのなら、やってあげようと思う。これは私のためだな。おかあさんができること、おとうさんができること、いろいろと役割分担はあるのだろう、と思う。